大橋 奈央2022.11.15

世界に誇る生酛造りで
最高級酒を醸す大七酒造

大七酒造株式会社 様

大七酒造のルーツ

—— 1752年に創業した大七酒造ですが、太田家のルーツは伊勢だと伺いとても驚きました。

太田 実は詳細は不明なんですけどね。伊勢の国(現在の三重県)から来たこと、また、室町時代後期に関東地方で活躍した武将・太田道灌と繋がりがあるという伝承があります。想像をたくましくすれば、水戸の徳川氏に仕えていた一部の太田家と縁組か何かがあり、伊勢から来たのではないかと考えています。

1643年、丹羽侯(藩主)が二本松に来た際に、我々の先祖はこの地に一緒に入りました。おそらく、丹羽侯が二本松に来る前の段階で北関東で殿様と出会い、ついて歩くようになったのでしょうね。

—— では、丹羽侯の御用商人として二本松に来住したことがきっかけで、ここに酒蔵を構えられたのですか。

太田 そうですね。太田家は3兄弟で、当時は次男と三男の家系が酒造業を営んでおりました。代々「太田長左衛門」の名を襲名している次男の太田家は、二本松で一番大きな酒屋だったのですが、戊辰戦争を境に酒造りを廃業し、別の道に進みました。

一方、三男の家系で「太田七右衛門」の名を襲名している私共の太田家は、戊辰戦争で大きな打撃を受けたものの、何とか続けることができました。現在では、一族のなかで唯一酒造りをしています。
—— 太田社長は東京大学法学部に進学後、政治哲学の道を志されたと伺いました。どのようなことがきっかけで酒蔵に戻ることを決意されたのですか。

太田 政治の哲学を学ぶにつれ勉強が面白くなってきていたので、この道は自分に向いているんじゃないかと思い、大学院に残りたいと考えていました。そんなとき、祖父から「もう待てないよ。早く帰ってこい」といわれまして。この祖父の言葉がきっかけとなり、蔵に戻ることを決意しました。

祖父はいわば、中興の祖みたいな存在でして。10代で父親を亡くした祖父は、進学を断念し、一生懸命家業を盛り立ててきました。「大七」という銘柄も祖父がつくりましたし、昭和天皇陛下御即位式典の御用酒にも選ばれるなど、掲げた目標を達成するかっこよくて逞しい姿をみていたので「もう自分も歳だから、早く帰ってきておくれ」と弱っているところを見たときに、これ以上は待たせられないなと思いました。

1985年に醸造試験所(酒類総合研究所の前身)で4か月ほど短期研修を受け、1986年の春から私の酒蔵人生が始まりました。
八代目 太田七右衛門 貞一 © DAISHICHI SAKE BREWERY CO, LTD.
—— 代表銘柄の「大七」といえば「生酛造り(江戸時代から続く伝統製法)」でお馴染みですが「速醸酛(乳酸を添加してアルコール発酵を促す製造方法)」が主流となった時代も、変わらず生酛造りにこだわった理由を教えてください。

太田 祖父が酒蔵を継ぐことになった頃の日本酒業界は醸造試験所の研究室で速醸酛が開発され、国が全国で講習会を開き、普及に努めた時代だったそうです。当時の東北は先進地の灘に勝つためには酒造改良が必要で、近代的な醸造法を取り入れないといかんという考えだったようで、祖父もいち早く速醸酛に取り組みました。

速醸酛で醸したお酒は次々と鑑評会などで好成績を収め、評価されたそうです。ですが、あるとき祖父は非常に物足りなさを感じたようで「この方向では自分の目指す酒は造れない。生酛は絶対にやめたらいかん」と思い直し、生酛造りを大七酒造の路線として決めました。そのまま速醸酛に取り組んで技術をあげていれば、そちらの成功物語が語り継がれていたかもしれませんね(笑)